bd268b04.jpg
蔵回(『七十一番職人歌合』東博本 画像:東京国立博物館)

 「蔵回」とは蔵すなわち質蔵を廻って流れ物(質流品)の古着、古道具を買い集め、それを売り歩く商人という。江戸時代の古手屋に近い。
『七十一番職人歌合』に描かれた姿は、折烏帽子をかぶり、素襖あるいは袖細直垂を着て、袴は返し腿立とし、大袋を左肩にかけ、左腰に腰刀を差し、右手に太刀と刀の二振を持つ。左腰の腰刀は差料で右手に持つ二振は売り物と思われる。
初見は『七十一番職人歌合』であることから、蔵回の職種が成立するのは十五世紀末頃と考えられるが、すぐに廃れたようで、江戸時代にはどのような職業であったのか実態がわからなくなっていた。
なお、質屋は庫倉の名で鎌倉時代にはすでに存在しており室町時代には土倉・酒屋が兼業した例が多い。

『七十一番職人歌合』の詠歌によれば夜間が蔵回の営業時間であった。
その理由は明らかではないが、恐らく流れ物には盗品が多く、人目を忍ぶため夜間に活動していたのではないだろうか。
室町時代、盗品は盗犯後、直ちに土倉に入質される場合が多く、発見が困難であったという。刀剣類はよく狙われ、永享年間には将軍家の宝剣二振が紛失した際、すぐに洛中の土倉関所にその旨が通達され、二ヵ所の土倉より発見されたという事があった。


一説に蔵回が泥棒であるというものがある。
大袋を肩にかける姿は盗人の象徴であり、十五世紀末に現れたのも、応仁の乱により足軽、盗賊が跳梁し、彼らによる盗品販売が盛んになったためであり、『樵談治要』には足軽の正体のひとつとして商人があげられている事から、この商人が蔵回であるという。
また後世、江戸期の古手屋の起源が、家康が盗賊の首領として捕縛された鳶沢という者の手下達を正業に就かせるため、古手買いを一手に引き受けさせたのが始まりという伝承からも、古手の売買は元来、盗賊が関わる職であるからという。

しかし、『樵談治要』には足軽の正体について武家下級被官や土民、商人としているが、商人が足軽として活動したという徴証はなく、『応仁記』にみられるような略奪品・盗品を買い取る商人の姿が足軽と混同されたのではないかと思われる。
蔵回自身が略奪、盗賊行為を行い盗品を得てそれを販売していたわけではなく、あくまで土倉や足軽経由で盗品を多く扱っていただけではないだろうか。